いつも、閉塞感を感じたとき、空を見上げていた。


小さな世界に自分がうずもれてしまうとき、
境界線も限界線もなにもない空の広がりが、
私の心のつっかかりを取っ払ってくれるから。


大陸にいたときは、毎日空を見ていた気がする。
朝も、昼も、夕方も、夜も。
朝は靄がかかっていて、はっきりしない空。
昼は雲がかかっていて、たまにまぶしい太陽が目に付き刺さる空。
夕方は、オレンジ色のグラデーションが美しい空。
夜は、星の代わりにネオンが煌く空。
そうやって、自分と異なる価値観の物事に対して心をふさぐ自分と闘っていた。
空を見上げると、すべての壁を取っ払える気がして。


日本に帰ってきて、いつの間にか空を見なくなった。
いらだつことなど何もない。当たり前だったことがそこにある。
普通のことが普通に行われて、ありそうな情報がたくさん氾濫していて、
そこは昔、あまりにも当たり前だったものがごろごろしていた。
目の前に押し寄せてくるたくさんの細かいこと。
一つ一つははっきり分からない。
埃か塵のように時間の中を舞っている。
空を見なくなったのではなく、見えなくなってしまった。
いや、正しく言うと、見えているはずなのに、それを意識の中で見ていない。
空を見ながら、見えているものは埃や塵でぼやけた何かの幻影。


それがたまりにたまったとき、目の前が真っ暗になった。
何をしているのか、わからなくなった。
何のために時間が流れているのかわからなくなった。
この場所がいったいどこなのかということさえ。


気づいたら、大きな岩が自分の前に立ちふさがっていた。
ただそれを前に途方にくれていた。
自分でそれを叩こうとも、壊そうとも、よじ登ろうとも、なにもせず。


もしかしたら、その大きな岩は、実は発泡スチロールでできていて簡単に壊れるかもしれない。
もしかしたら、鉄でできていて、叩いたら、手の骨が折れるかもしれない。
それは、やってみないとわからない。見た目の大きな岩なんて、なんにでも見える。


東京は、晴れの日が多い。青い空が広がっている日のほうが多い。
明らかに大陸より美しい空なのに、見る側が、
勝手に境界線を引いてしまうのはなぜだろう。
外にいたら心は広がるのに、
中にいたらなぜこんなに閉じてしまうのだろう。


目の前にある大きな岩は、ほんとうは、ただの一枚岩で、
全力でぶつかったら、簡単に粉々になるかもしれないのに。
埃や塵でさえぎられている視界は、そのときに開くかもしれない。

空はどこにいても変わらないはずだ。
ただ見るものの心に映えるものが移り変わるだけで。
それは、見る人間の心の中にしかない。