わびしさ

ピアノを開ける。
何の気はなしに「ミ」と「ソ」を押す。

寂しさと切なさの中間、わびしさが広がる。
「ド」と「ミ」でも、「レ」と「ファ」でもいけない。
「ミ」と「ソ」が一番わびしいと思う。


なぜかこの音を聞いたとき、ふと、交差点を思い出した。

ほとんど車は通らないのに、白線できっちり横断歩道が引かれ、ちゃんと信号まで整備された交差点。
道路も整備されて、土砂崩れを防ぐための土手もしっかり築かれている。
目がぎょろっとした男の子と女の子の人形が手を上げている。
その横に安全と書かれた黄色い小旗が2本ぐらい入っている。

だけど、一度もそれを使って横断している人を見たことはない。

整備されているのに、使う人も、それに関心を払う人もいない。
車さえ、ほとんど通らない。
静かな静かな道路。

青い青い空と濃い緑の深い森が静けさをさらに増す。

そこに立っていると、寂しいでもない、悲しいでもない。
ただ、わびしさを感じる。


そういうわびしさを感じさせるものは、上海にはない。

わびしさというものは、当たり前に見えるものが、空気とか、時間の流れとか、周りとの関係とか、
そういう目に見えないものによって緊迫感をたたえられたとき、発生するものなのかな、と思う。

上海で見るものは、一見わびしそうにみえて、やはり好奇心のほうが勝る。
何でこれはこうなんだろうと、おもってしまう。

外国人の自分にとって、上海にあるすべてのものは「当たり前に存在するもの」ではない。
だから、空気とか、そういう潜在的にあるものよりも、まず、そのもの自身に関心が向いて、
それで終わってしまう。

それはそれで楽しいけれど、あまり自分の中に残らない。
よそものとして、簡単に消費して、自分の中に内在されるものにはならない。


だけど、それは中国にくるまで知らなかった。
「当たり前」ではない世界が存在することを。
日本にいたとき、そういうつまらない横断歩道は、そのままつまらなかった。

中国に来て、記憶の中に組み込まれた横断歩道にわびしさを感じる。
「ミ」と「ソ」のハーモニーにわびしさをかんじたように。