始まりの日

上海を訪れた第一日目。

中国の新年を祝う春節の一番最後の日で、体の芯が冷える底冷えの日だった。

学生寮に手続きに行き、部屋の鍵をもらった。

先にルームメイトとなるどこかの国の誰かが先に手続きを済ましていたようで、

大きな大きなスーツケースがあった。

対する私は普通のリュックと国内旅行程度の小さなスーツケース。



もう夜になりかけていた。

空港を出て、分からない言葉の中で、親しみの湧かない建造物の中で、ひどく疲れていた。

布団はまだ買っていないけれど、もう寝ようと思った。

でも、あまりにも寒いので暖房をつけようと思ったら、

どうもルームメイトがそのリモコンを持っていったようである。

リモコンのないエアコンをどうしてもつけることができない。

寒さに震えて、どうしてこんなところにやってきたのか、

大学を卒業して、留学してその後はいったいどうなるのか、

一応建前上それなりの目標は用意したが、それは決して真意ではなく、

突き詰めて考えれば結局現実逃避に過ぎないことを本能は気づいていた。

そんな心持ちが、底冷えする寒さとあいまって、孤独感をなおさら強くした。



眠れなくて、寒いけれど外に出てみた。

かすかに見える爆竹の花火の輪郭と、ビル群。

ほかには何もなかった。月さえも、もやがかかったようにはっきり見えなかった。

周りに親しみの持てるものなど何ひとつなかった。

電柱も、道路も、階段も、歩く人も、売っているものも、看板も、

宇宙にあるはずの月でさえも、上海から見るものは、日本で見たものと違っていた。

過去も、現在も、未来も、あらゆるものが私と隔絶した存在だと感じた。







あれから4年たって、新しい場所に新しい目的を持って新しい環境にいる。

やはり同じように先行き不透明であり、具体的にどうなっていくのか見当つかない。

だけど、孤独も不安もそんなにない。

4年たって、すべての時間が私に近づいている。過去も、現在も、未来も。

孤独や不安は、自分で何か仮想の対象を作り、

それに自分を反映させていたイメージから来る恐怖であり、

ただ自分をがんじがらめにする妄想の檻にすぎないことに気づいた。

具体的な自分の行為が、具体的な外からの反応になって帰ってくるだけで、

それ以上でもそれ以下でもない。

だからこれからは具体的な行為を積み重ねていこうと思う。

今年の運勢

emmuuu2009-01-04


新年が来るとほとんどの人が初詣に行きます。

我家では駅伝の優勝祈願を掛けて近所の神社へお参りに行くことが

いつの間にか「初詣」の代行を務めるようになっています。

小さいですが八幡神宮の一種で、受験も、スポーツも、海外渡航も、

いろいろ祈願してきた産土神です。

その神社は100段以上ある段差の高い石段を手すり無しで

40メートルぐらい登って、お稲荷さんが迎えてくれます。

面積は狭くまったく人っ気がなく、殺風景です。

神様が祭ってあるところまではたやすく到達できます。

それが、私の中にある神社参拝の概念でした。




いまや居住地となった浅草にある、浅草寺

観光地なので、やはり3日になっても、観光客で賑わっています。

ところがいつもと様子が違い、お正月のために、

普段は駅までの最短ルートとして歩いていた観音様から雷門までが

押し寄せる参拝客のために封鎖されています。

歩いていた道がもう歩けなくなっています。

それどころか、警察の方が出動して、メガホン片手に観音様の前に仁王立ちして

参拝客を交通整理しているという場面に出くわしました。

観音様までおそらく100メートルぐらいの長蛇の列です。

普段は余裕で拝める観音様が、この日は斜めからやっと見えるか見えないか。

地元ではほとんど生で目撃することのない警察官がたくさん出動しています。

物々しさに辟易して、観音様ならいつでも拝めるので並ぶことはせず、

おみくじだけ引いていなかったので、回り込んで100円のおみくじを引きました。

凶でした。人生初お正月のおみくじで凶を引きました。



明日から、新しい仕事が始まります。

東京で、というよりも、初めての日本の職場です。

いつの間にか時間ばかり先走って、今はもう体や頭がついていっていません。

凶のおみくじは何を暗示するのか。

具体的な行為はこれから自分が構築していくのみです。

先が見えないことはまだまだ自分の墓場が定まっていないということで、

不確定要素が大きいことはそれを可能性に転化できることであって、

願い事も待ち人も病気もお金もどれも叶わないけれども、

要するに待たずに自分でやれということに解釈し、

明日からの仕事を、がんばろうと思います。



新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

よくころび、ずっところぶ。

家の近くに、相田みつをギャラリーがあります。

そこで見つけた、今お気に入りの詩。

壁に貼って、勇気をもらっています。





『受身』


柔道の 基本は受身

受身とは ころぶ練習 まける練習

人の前にぶざまに 恥をさらす稽古

受身が身につけば達人

まけることの尊さが わかるから






東京に来て、東京モンスターに説教くらったり、

田舎者キラーに、包囲されたり、

日雇い単純労働を、クビになったり、

いろいろ、つまづいて、ころんでばっかりですが、

転んでみないと、痛い思いをしないと、

分からないことだらけで、どうしようもない。

ただその先を推測して前に進まなかったら、たぶん一生分からないまま。

やっぱりこの先も、ちょっと怖いけど、

ずっとずっと、転び続けるのだろうと、思います。

コミュニケーションに困る

東京に来て、約1ヶ月が経ちました。

職を探したり、家を探したり、日雇いのバイトをしたり、シェアハウスに住んだり、

買い物をしたり、道を聞いたり、電車に乗ったり、その辺をぶらぶらしたりする中で、

刹那的に人と接触する機会が多くなりました。




たいてい、困ります。

相手が何を言っているのか聞き取れなくて。

いや、正確に言うと、その発する言葉の背景が読み取れなくて。

なぜその人はその言葉を私に向けて発したのか、意味が汲めないのです。

中国語的に言うと、「听得懂,但是听得不明白」状態です。

私のコミュニケーション力不足なのか、

私はいわゆるKYなのか、考えます。




考え込んで、結果、困ります。

どう返答したらいいのか。

返答までの時間は限られているから焦ります。

でも、間に合わない。

結局口から滑り出る言葉は曖昧で不確かなものでしかない。

言っている自分が気分が悪い。




相手は怪訝そうな顔をしたり不満そうな顔をします。

顔が「そんな答えは求めていない」と言っています。




たぶん、彼らと私の背景はかなり距離ができてしまっている。

私のなかの文化比率がおかしなことになっている。

4年前、私は日本にいたときどうやって日本人と接していたのか、ほぼ、忘れました。

中国にいた日本人で言葉の背景が読めない言葉を発する人はたぶんいなかった。

いたかもしれないが、少なかった。

でもなぜか今の文化比率のほうが心地よいので、たぶん思い出せません。




これからの社会人生活、少し不安です。

日雇い労働を通して「労働」を考える

日雇い派遣労働」というものを、生まれて初めて体験しました。

服飾関係の棚卸し作業1日、お菓子の箱詰め作業1日、計2種類2日です。

ほかに試食販売の仕事もしましたが、これは置いときます。



日雇い労働を含め、派遣とか、非正規社員というのは、

今日、格差社会を説明する一種のキーワードになっているように思います。

情報漏えい禁止事項に一応サインして印鑑も押したので、

詳しく書くことはできませんが、

私がその現場にいて思ったことは、とても「お手軽」だということです。

働く側も、働かせる側も。



働く側(私)は、とりあえず今現在お金が欲しい。

だけど、長期期間は働けない。だから、短期バイトをネットで探して

ポチっとクリックして、仕事をゲットする。

派遣の登録が必要な場合もあれば、そのときに身分証明書のコピーを

もっていけばいい場合もある。

働かせる側はその日にやってくる労働者を物のごとく扱う。

仕事の簡単な説明や、必要な持参物などの説明はあるけれど、

なぜこの労働をしなければならないか、ということや、

自分が今現在何のプロジェクトにかかわっているのか、そういう説明はなく、

今目の前にあるものを動かせ、とか、ラッピングをするとか、

動作の説明のみがなされ、常に悪意の目で監視される。

たとえばベルトコンベアーで流れてくる商品を箱詰めする指令で、

物が流れてこない1分間、手持ち無沙汰にしていると、

暇そうだからと別の仕事をその時間にやれとさらに指令が下る。

私が遭遇した現場で命令を出す社員は、業務の最効率を考えての指令ではなく、

今日派遣されている労働者たちをいかに物的に動かすかということに

重点が置かれているので、命令が前後左右することもあり、

逆に仕事の能率を下げてしまうこともあった。



労働者はとりあえず物的に動いていればいいので、

そこに各人のその仕事に対する大きな責任は発生しない。

もちろん、働かせる側も、責任を負わせる気がないから、

必要最低限のことしか教えない。

期間限定労働者だから、簡単に入れたり切ったりできる。

働く側も、前日にキャンセルするのはご法度だが、それまでならキャンセルできる。



これが「お手軽」労働だと思った要因です。

「お手軽」労働によって、熟練労働者へ成長するという可能性は低いし、

責任のない仕事はその人間の潜在能力まで引き出せない。



逆に、「お手軽」だからこそ、働く側も働かせる側も含めて

社会が必要としているのだろうし、その領域が広がっているのだろう。



だけど、それが格差社会のキーワードだとしたら、何かがおかしい気がする。

ワーキングプアを生む温床になっているのだとしたらますますおかしい気がする。

社会が用意しているいくつかの選択肢を選んでおいて、

いったん機能不全になると、社会に対して自分を守れと主張することは、

ただ社会に対して自分が盲目的なだけじゃないのか、と思う。

社会とは、一人ひとりの人間が作り上げるものであって、

なにものかが作ったものを提供している空間ではないはずだ。

だとしたら、お手軽なものを選択したという一つ一つの行為が

社会を形成していくわけで、それが直接自分に帰ってくるのは自明の理なのに。



「お手軽」に、「便利」に、得られる労働の対価は、

そんなに安いわけじゃない。日給1万円以上のときもある。

だけど、その効用は限りなく貧しい、ということを身をもって体験しました。



べつに正社員がいいと言っているのではなく、正社員だったとしても、

労働に対する態度が貧しければ結果は同じことだろうと思う。

その労働に真摯に取り組まなければ、労働の意味さえ見えてこないだろうし、

なにものも身につけることはできないんだろう。



1月から働く会社は小さいし、時給や待遇は派遣社員以下ですが、

その労働が持つ意味にたどり着けるような仕事ができれば、いいなと思います。

『若きサムライのために』

emmuuu2008-12-05




三島由紀夫切腹した小説家。




私の中では、現代社会でありえない存在という認識。

でも、風評しか知らなくて実際読んだことはなかった。

実際手にとって読んでみました。

エッセイ『若きサムライのために』。

読んでみたら、普通にすんなり受け止められ、

むしろおもしろくて一気に読みました。

べつに過激でおかしな思想家でもなんでもない。

むしろ、男らしくてかっこいい。

死ぬ気で美意識を追求した男、のようです。

「文弱の徒」を批判するくだりが、自分にとってとても自戒になります。




一流の文学とは、何の救いもなく人間を絶望のふちに突き落とすもの。

その力を借りてあっち側に行った人間が世界を斜めに見て、馬鹿にする。

そういう人間は、「青年にとって一番大切なものである純粋な愚かしさ、

動物的な力を欠いている。彼らは隠花植物の一種になったのである。(抜粋)」

ただ盲目的な単純な行為が、そういうものを克服する。




遠藤周作もほとんど読んだので、次はまた同年代の作家、三島由紀夫にチャレンジします。

東京の青空

東京の青空。

4年ぶりに日本で暮らしています。

空が青い。

太陽がまぶしい。

ご飯がおいしい。



当たり前に存在するものは、当たり前ではない。

可能性や未来ではなく、今そこを生きる。

私の行動様式が、文化そのもの。



味気ない世界が、単調な毎日が、豊潤な世界に変わりました。

死んでしまった文化はあるけど、つまらない現実なんて存在しない。

何年か後の私がどこかにいるんじゃなくて、

今の私が明日の私を作る。

今を生きて初めて明日とか、可能性がある。

可能性を生きることはできない。



当たり前にそこにあるすべてのものに気づくことが歴史を知ること。

自分に流れている感覚に気づくことが文化を知ること。

そうやって自分は生かされている。



中国上海市に4年間いて、日本に帰り、今そんなことを感じています。